死を乗り越える
仕事関係の方で、三十半ばにしてガンで亡くなった方の葬儀が昨年あったことを、ふと思い出した。喪主はお父様でけっこうなお歳で、商売の跡取り息子でもあったのに
奥様とお子さんを残し、ひどく憔悴しきっていて
喪主の挨拶を変わりに長男さんが務めた。
その挨拶の中で印象的だったのが「○○は死への恐怖と必死に戦っておりました・・・」。
生きている以上、死は避けられないわけですが、死とはなんぞや、死んだらどうなる
なんてことは求めなければ入らない情報であり、真偽も怪しい。
仮に特定の宗教に属していれば、なんらかの指針というか方向性というか
信仰がないにしても、あの世っていうのはあるかもね、ぐらいは大抵の人は思ってるのかもしれない。
しかし、死に対して何も考えたことがなく、知識もなく、まして家族が死に直面してしまうと
それは悲劇であって、永遠の別れを意味するのであることを、長男さんの挨拶から実感した。
肉体が滅びることを死と呼ぶ。
それは一つの生命サイクルの終わりであり、新たな始まりでもある。
肉体とは魂の入れ物であって、肉体が死ぬと魂は離れ、あの世へと戻っていく。
あの世に行くと、ご先祖や守護霊などが迎えてくれるとされる。
そして、己の生き様をまざまざと見せ付けられるとも言われる。
生きている間に犯した罪、過ち、果せなかったみ役などを改めて知り、行に励むと言う。
生きている今のうちに、自らの魂を浄化させることによって、あの世での行は軽くなり
神の力によって昇華(しょうげ)させられる。
魂の浄化。それは霊行と呼ばれる。
日頃の生活を通じて行うべきことであり、決して難しいことではないはず。
それは、掃除、感謝、祈り、反省、食事、良い言葉、神を信じる心
といったことであり、お金や物、地位や名誉に執着せずに、慎ましく生きましょうよ
といったことのようです。
産まれてきたときの、美しい無垢の魂でずっといられる人なんて今の時代にはいないでしょう。
肉体あるがゆえに、物に頼り、お金が必要となるのは必然なのですが
そのことばかりに心を奪われ、物やお金の奴隷となり、感謝もせず己の欲のままに生きて
やがて魂は汚れ曇り、本来持っている霊性を失っていくのでしょう。
日本には神社があり、特別信仰がなくても初詣に行き祈りを捧げることは
自然な内から湧き出る信仰でしょう。これはとてもすばらしいことだと思います。
その自然な信仰心を厚く、深く、大きくすることが今必要なのです。
神社に行かずとも祈り感謝を捧げましょう。
世のため人のために祈りを捧げましょう。
自分や家族のことだけを祈るだけではなく、多くの人のために、地球のために、全てに感謝をし
神と共に己の魂があることを祈りましょう。
見えないこと、見えない存在に通じるには言葉・言霊が重要であるように思います。
言葉にすることによって、魂に届き、内在する神へと届き、波動となって天にも届く。
死への恐怖を超越するには、先ず祈りと感謝を捧げることです。
自然界で起こる全ての事象は、人へ気づきを与えると共に、禊と浄化でもあるようです。
自然界への畏怖、感謝を忘れた現代人は、神との約束も忘れ自ら溺れていくのです。
溺れていても助けて頂けるよう、魂を磨くことが必要であると強く思います。
死を恐れている、不安であるのは、裏を返せば感謝していないとも言えます。
日々感謝し、生かされていることを、与えられた命を、魂を意識していれば
見えない世界への扉は開かれるのではないでしょうか。
あの世は実在します。見えないだけですぐそこにあるのです。
見えない世界からの干渉は常にあるのです。
肉体の死を迎えたあと、神様は魂を拾い上げてくれるそうです。
ただし、拾えない魂もあるようです。
日々の霊行に励むことで、あなたは内なる神の存在に気づき、やがて浄化されていくでしょう。
あなたの魂が神と共にあり、光輝くことを切に願っています。
